〒034-0003
青森県十和田市元町東2丁目2-25
TEL 0176-23-9126
FAX 0176-23-9167
お問い合わせはこちら
当サイトの価格表示は
すべて税込みです



お問い合わせ
南八甲田山の旧県道 №14 (娘身売り)
2007年12月20日
映画の「あゝ野麦峠 」やドラマ「おしん」は、娘が「奉公」に出て、その出先の話しが物語となっている。
が、実際は「娘身売り」の話しである。
特に、「おしん」のドラマは、視聴率が高かった・・・。

では、どうして娘を売ることになったのか。
東京日日新聞青森版(1932年6月25日付け)にこう記されている。
「青森県の○○村の一家は、八人で八反歩の田を作っているが、戸主は、五年前、北海道に出稼ぎに行ったまま消息を絶ち、もちろん何の仕送りもない。妻は六人の子供を抱え、死に物狂いで働いていたが、昨年の凶作でやられたために、負債がかさんで、ついに娘さんを身売りさせるはめになり、昨年の暮れ、十五歳の次女を岩手県の花巻温泉へ、十一歳の三女と九歳の四女を、それぞれ隣村の身寄りにやるなど、ついに一家は離散し、現在はわずかな払い下げ米で飢えを凌いでいる。
今年の耕作は、肥料代の目鼻がつかないため、無肥料耕作をやっている。
また、別の一家は、家族九人で田が七反歩、畑が九反歩の自作農農家であるが、信用組合から百二十円、隣村の某より二百円、自作農創設資金1千円、合計1千三百二十円の借金のため身動きがとれなくなり、長男は、百日間で、わずか三十五円の出稼ぎのために北海道にやり、十八歳の次女は四年年期の二百円で静岡県の紡績工場に、さらに三女は、近隣の料理店へ酌婦に出して客をとらせている。」
農家には借金があり、借金は限界に達して利息の支払いだけでも大きな負担で、働いても働いても借金が減っていかなかったようです。

また、以前、掲示板にも記載したように、当時の青森県内にはこれといった産業が無く、昭和6年と9年に起こった大凶作に対し、各農家でワラ製品の加工商品を推進していた。ワラ加工は、ロープ、ムシロなどの製品にして北海道に出荷したが、凶作の年に限って、水産業も芳しくなかったようで、ワラ製品が売れなかった。また、北海道に出稼ぎに行っていた、県人も北海道優先の雇用で出稼ぎも無かったという。
とうとう、農村の娘達が犠牲となり、300円、400円で売られていくことになった。

○売られた娘の数
・昭和6年1月~12月まで(東奥日報新聞昭和8年5月13日付け)県内858人、県外1559人、合計2,417人。

・昭和7年1月~5月にかけて、わずか五ヶ月間に県内583人、県外918人、合計1,501人。
 青森123人、弘前83人、八戸474人、東郡246人、西郡8人、中郡28人、南郡121人、北郡98人、上北郡196人、下北郡65人、三戸郡59人。
 業種別に、芸妓198人、酌婦404人、女工413人、娼妓207人、不明・その他279人、合計1,501人。

・昭和8年1月~翌年10月まで2,975人。(県農政課調査)
 青森市139人、弘前67人、八戸374人、東郡309人、西郡425人、中郡116人、南郡433人、北郡126人、上北郡347人、下北郡106人、三戸郡384人。
 業種別に女中1,152人、女給347人、芸妓111人、酌婦364人、女工724人、娼妓272人、その他5人、合計2,975人。

*特に南部は人口比率から多かったようだ。
昭和6年1月から昭和9年10月までの3年10ヶ月で売られた娘は、6,893人・・・。
なんと1日5人の割合で、売られていったことになる・・・・。
なんとも悲しい話である・・。
現代と比べ、この時代は、異常だったんだと・・・。

青森県農地改革史に転載されている東京朝日新聞(昭和9年12月2日付け)の記事にこんなことがかいてあった。
「14歳の娘を名古屋の娼妓屋に五ヵ年契約で四百五十円で売った。そのうち百円は一本になってから渡すとのことで、娘の着物代として五十円、周旋料だと言ってブローカーに二十二円五十銭、父親と周旋屋とで娘を名古屋まで送った旅費百二十七円五十銭で手元に残ったお金が百五十円。そのうちから七十円の借金を支払い、四十円で家を買うと残る四十円も何ということなしに消えてしまった。父親が言った『吾ぁ娘売る気ぁ夢にもなくてあったども周旋屋が家のわらし(娘)ど借金の切なみに眼つけで、売れ売れって四十日の間も付きまといました。そのうちね飯米ぁなくなるし、女房ぁ妊娠脚気ねなるし借金取りにゃ責め立てられるし、おまけね(にぇ)、借金の保証が女房の妹だはで、吾ぁ済まさねば保証人の娘ば売らねばまいねぐなってとうとう売る腹ね(ねぇ)なりました』と溜息をついた。」
また、この年、県下百六十七ヶ町村のうち娼妓を出さぬ町村はわずか二十ヶ町村に過ぎず、芸娼妓に売られたものは累計七千八十三名に達し、娼妓に売られたものは昭和六年の三倍といわれた、という。
県農政課の調査は、ほんの氷山の一部をなでたにすぎない。
と、書かれていた。
実際にどのくらいの娘が身売りしたのか。
「娘身売り」は、各書物によっても異なり、事の性質上、正確に知ることは不可能のようだ。
太平洋戦争後も、この「娘身売り問題は続くことになり、娘達の涙は変わらなかった。

こういう時代背景に、南八甲田山の旧県道が農村救済工事として始まるのであった。
が、現代人には分からないと思うので、もう少し「娘身売り」の話を書いてみたい。
と、日記には書いておこう。


戻る
Copyright(c)2005 ALPHA TRADING. All Rights Reserved.
このホームページに掲載されている記事・写真・図表などの無断転載を禁じます。