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南八甲田山の旧県道 №16(娘身売り)
2008年01月16日
正月も終わり、一息ついたところで「娘身売り」の続き・・・。
今では、死語となっている「娘身売り」。
太平洋戦争後まで、平然と使われていた。
もし、かりに昭和初期のようなことが、今もあったとしたら・・・。
考えただけでも、ゾッとする。
特に、幼い娘さんがいるおやごさんにとって「娘身売り」はどう思うのであろうか?。
仮に、今の時代も「身売り」があったとしたら・・・。
親の心境になると、いてもたってもいられないと思う。
ましてや、兄弟(姉妹)達は売られていく姉、妹をどのようにして見送っていたのだろうか?
裕福になった現代・・・。
「娘身売り」があった話は、時代とともに消えていくような気がする・・・。
さて、当時の新聞や文献を詠むといろんなことが書かれている。

東京日日新聞青森版昭和7年1月29日付け
「凶作地の娘を魔手から救ふ =困窮の家庭に対し=愛国婦人か貸金 青森県下の凶作に乗じた他府県から多数の人買いが入り込み甘言で農家の娘を僅かの前借で連れてゆくものがその後も相変わらずあるので、県保安課で調査しているが、最近青森赤十字社支部奈良主事が上京の途中四名の娘が買われて行くのをみて大いに同情し愛国婦人会支部に諮ったところ、困窮した家庭にに対は百園内外の金を貸して県外へ出稼ぎすることを防止することになり目下これが方法を研究中である。」と。

「女の歴史」という本には、青森県出身者の体験談が書かれていた。
「『・・・、若さのあまり吉原、州崎へよく行ったものだったが、東北出身の娘が多く、とりわけ本県の女にはよくぶつかった。吉原よりむしろ州崎の方が多いように思う。凶作との関係で農村の女が大半であったが、青森や弘前など都会の娘もいないわけでもなかった。家内の青森高女時代の同級生にぶつかったときにはビックリし、不況の深刻さを思い知らされた』という。・・・、当時、大蔵省に務めていた青森市のM氏は『どの妓楼も最低十人に一人は同郷の女だったようだ』といい、H氏は『多い店は八十パーセントが青森からひきとられてた女の子で占められていた』と証言している。」

「娘身売り」でよく見かける写真がある。
それは、「人買ひの手中から救世軍へ、救済」という写真で、写真には七人の女の子が写っており、前列に背の低い二人の女の子と、後ろには背の高い女の子が四人写っている。
昭和9年12月5日付けの東京朝日新聞が写真と一緒に次のような記事を載せている。
「けふもまた山形縣の可愛そうな娘が七人人買の手から神田の救世軍本部に救われて来た。
この中には小学校5年生の子供が二人もいて子供心に始めて来た東京が嬉しいらしく、にこにこ笑っているが、流石に大きい方の娘達は微笑もせずに、悲しみを押し隠している、・・・。」と。
同じ紙面に別な記事も「=地獄の門で救われて=またもや悪周旋屋に売られんとして危ふく救はれた少女二人。四日朝七時五十分上野著列車で上京した救世軍大尉羽柴末男氏はモンペ姿の二人の少女を連れてきたがこの二人は山形県・・・群・・・村の○○さん(一二才)○○さん(一二才)で、いずれも家のため悪周旋屋の口車にのせられ、わずか五十園で藝妓屋に売られやうとしたところを同地駐在所員が発見、折柄同地方に来ていた救世軍の羽柴氏に手渡したもので・・・。」と記載され、12歳の幼い娘二人がモンペ姿でベンチに腰掛けている写真が記載されいる。

12歳で身売り・・・。
12歳といえば、小学校6年生・・・。
また、こういう記事も、昭和7年東京朝日新聞「泣くに泣かれぬ五百園 酒と共に消えゆ 凶作が生む一哀話 ◇廿三日午前五時五十五分東京駅著大阪発列車が横濱駅にはひつたところ前から三両目に乗っていた宮城県○○郡○○の○○(五十五歳)さんが金をとられたと騒ぎ出しはては泣き出した。◇同人は東北一帯の飢饉で食へなくなり娘さよ(二〇)=仮名=を濱松の製糸工場に五百園の前借で住み込ませ、その金をモスリンの風呂敷に包み胴にしっかり巻きつけていたが大金を持つたので食堂車で一杯飲むうちについに泥酔してしまった。◇風呂敷には十園札四十四枚、五園札一枚五十銭五枚があり娘の身代金なので同人は青くなっていた、専務車掌が調べたが金はなかった。」なんとも言えない事件。
そのあとどうなったんだろうか?

東京朝日新聞昭和9年11月3日付けの新聞が地元十和田市の記事を書いていた。
「魔の淵から救はれ 雄々し職業戦線へ 売られ行く青森の娘十六人 関西の日の出紡績へ就職」
*左の添付写真
内容は「青森県上北郡○○村(現十和田市)の開墾地○○部落の娘十六人は紹介所の努力で和歌山県の御坊町日の出紡績に就職斡旋されいよいよ娘売買防止の先駆として凶土から雄々しく就職戦線へ乗り出すことになった。
◇・・・一向は一日三本木町(十和田市)に勢揃いし氏神の稲荷神社に御礼まいりをし助役さんからっ激励のことばを受けながら別れの書食をとった、せめて今日だけは可愛い白いご飯を食べさせたい親心であろう、娘達のひらく包みの中からは珍しく白いお握りも出てくる、付き添って来た娘の兄は、『みんな揃って白い飯を食べたお別れの日を忘れるでねえぞ、』と涙声でさとす、娘達はもうたまりかねてすすり泣いている。
母親とヒソヒソ語り合っては手拭を顔へ押し当てている娘、無言で何か追うような眼付で付き添っている親父の目頭がもうるんでいる。
最低十三歳、最高が二十歳、義務教育を満足に終了したのは一人もいない、会社から送ってきた前借金は一人握り二十園、職業紹介による汽車賃は半額割引だから旅費五園そこそこと小遣いい二、三園引いて残り十園から十二園を親の手に残して彼女等は行くのだ。
◇・・・そこから乗り合自動車で古間木へ出発、東北線で午後六時十五分青森に着き午後十一時十分発で大阪に向かった。自動車も汽車も始めての彼女たち初旅のうれしさと郷土におさらばの悲しさをのせて西に急ぎ二日朝六時五分に大阪につく予定である。・・・」
このように、新聞記事の写真をみると、せつなそうな娘達の顔が写っている。
また、地元十和田から知らない大阪の紡績工場に身売りすることになった彼女達の心境は・・・・。
就職後どうなったのか・・・。
資料が無いのでわからない・・・。
ただ、いま現在生きているとするれば87歳になっている方々であろう。
そいう苦境にたたされた人達の、話はもう聞けない。
し、資料でしかみることが出来ない。
昭和初期に起こった大凶作から娘身売りという悲劇が生んだことが今の世の中に伝わっていないような気がした・・・。
このことが徐々に忘れ去られ、食べ物を大事にするという風習がなくなってきているような気もする。
この時代は「食べる物も無い」時代だったのだ・・・。

また、昭和9年12月20日付けの東京朝日新聞に「南洋へ娘投売り」という見出しで、南洋諸島のパラオ島まで売られるところだったとういう記事があった。
パラオ島まで・・・・。(http://www.nanyou.org/html/palau/history.html)

と、このような状況を救済しようと、日本国内あちらこちらで南八甲田山の旧県道のような農村救済土木工事が始まった・・・。

パラオ・・・か~。
パラオで何があったのか行って調べる必要があるな~。
と、日記には書いておこう。

*当時のお金は?
「現在のお金と比べて、どのくらいだったのか?
単純に算出してみた。
現在、米一表(60kg)約19,000円(物にもよる)で計算すると、一升(1.804kg)で約571円。
一斗で約5,712円、一石で約57,125円。
昭和6年一石当たり18.46園。
となると、昭和6年当時の一園は、現在のお金で表すと約3,093円となる。
計算間違えしていなければ・・・。
ただし、これを基準として考えないほうがいいと年配の方は言っていた・・・。」



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