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南八甲田山の旧県道 №17(救済土木工事)
2008年02月20日
世界恐慌から始まり、昭和6年、昭和9年と続いた凶作による農村の打撃。
これによる、小作人制度などで地主からの借金による、口減らし、出稼ぎ、娘身売り。
この状況を、痛感した青年将校による2.26事件と、世の中が戦争へと突入するキッカケとなって行く。
その中で、農村を救済しようと行なった事業が「救済土木工事」。
全国的に行なったようだ。

青森県内では10万人の失業者と凶作で困窮している人達に対して、手っ取り早く生活費をかせがせる方法としてとられた処置で行なわれ、昭和6年度と昭和7年度に国道、県道の改良工事、橋梁掛けかえ、町村土木工事をあわせ120万円を投じたと「青森県政治史」に記載されている。
しかし、工事のほとんどが長期計画的な一貫したものではなく、現金をただくれるわけでもないから働いてもらおうというものであったそうだ。
当時の請負条件として、不熟練労働者に支払うべき賃金は最低額を定め、なお県の指定に従い、各人の技術に応じ支払い、労働時間も一年を通し季節によって1日の労働時間が設定されていた。
○労働賃金
14歳から17歳、一人1日男 40銭、女 30銭。
18歳から50歳、男70銭、女50銭。
51歳から、男60銭、女40銭。
○労働時間
2月16日~4月15日:9時間
4月16日~9月15日:10時間
9月16日~11月15日:8時間半
11月16日~2月15日:8時間

この救済土木工事に関係する県の予算案が「青森県議会史」に、昭和6年12月3日・第33回通常県議会において当時の守屋麿瑳夫知事の第36号議案より第42号議案報告がある。。
「・・・昭和6年度歳出追加予算額112万7582円、昭和7年度歳出追加予算額は154万6925円でどれも救済事業に関するものである。救済土木費は総額158万円でうち県で施行する工事費は121万4千円、これを昭和6年度に58万円3800円。昭和7年度に63万200円に分けて計上した。この工事費には国庫補助金昭和6年度29万1900円、昭和7年度30万3400円を受ける見込みでその残額は起債とし昭和6年度29万1900円、昭和7年度31万6800円を計上した。また市町村に於いて施行の救済土木碑は総額を36万6千円と予定し、うち11万8400円は市町村工事費対する補助金とし、23万6800円は市町村にたいする工事費貸付金とし、1万800円は市町村工事監督費としこれに対し三分の一の国庫補助を得て残額三分の二を県で起債し市町村に貸付する。以上の土木工事により1万8千余の要救済者に衣食の途を与えることが出来るみこみである。・・・」と。(青森県議会史から)
これらを見ると救済工事における工事費を国庫補助金をあて、各市町村貸付していたようだ。
(守屋麿瑳夫 35代青森県知事: 昭和5年8月26日~昭和6年12月18日就任)

さて、当時の新聞をみると。
下北郡のむつ市(田名部町)のことが昭和9年12月10日付けの東奥日報新聞に記載されている。
見出しには「土木工事にやや明るい下北」と。
内容は、「田名部町の救済工事は11月20日ごろから始まっている。県道の改修は一萬二千四百八十四園で、恐山街道、出戸川代街道、横迎町の三ヶ所。
耕地關係は、萬六千三百八十四園の予算で、中の澤、、大曲近川、奥内、、北関根、、南関根女舘、鳥澤の農道、山邊澤、土平内の溜池、大曲の水道の十一ヶ所で殆ど全町毎戸から
毎日七、八百人出て働き、着々進行している。」と、記載。

昭和9年12月10日付けの東京朝日新聞には
「赤切れの手に、冷たいシャベル」という見出しで「十三の少女までが激しい労働を」と記載されている。
記事の内容は「白い飯が食える喜びに救済工事は進む、田名部町では下北郡内に魁けて十一ヶ部落のため池、農道、水路の救済工事を一斉に開始した。
山峽のため池工事から朝の吹雪を突いて景気づけの唄が聞こえる。
この働く男女の群の中には小学校を卒へたばかりだという十三歳の少女までいる。寒風に霜焼けとなった手は紫色にふくれあがっている。
聞くと十七歳になる姉と二人で来ているという。家に帰ると火の気がないので雪の中で働いているほうが温かいと答える。
シャベルを握った農民は交る交る語る。
『私達は働くことは何とも思いません。然しあおの田んぼを見てください。
雪に埋もれた實らぬ稲田あれが一ヵ年汗と膏を流して働いた收穫です。
莚一枚敷いていない家だってあるのです。
子供だって家に居たくありませんよ。』
吸い上げたポンプのモーターが回転し始めた。
吹きまくる寒風が眼にしみる。」

昭和9年12月の東奥日報新聞には「凶作地の学校を見る」という見出しで、十和田市の法奥小学校の記事が記載されている。内容は「その学校の全校生徒は六百八十名、その中現在缼食児童二十二名で、今明日中に給食開始の準備だという。
校長さんの話では、この頃でも全校児童の三分の一は足袋を履かないでいるという。
しかし、これは全部凶作の結果ばかりではない。平作でも農村児童はよほど寒くなるまで足袋を履かぬ習慣がついている。
これは一には身体練磨の為になるのであるが、可哀想なのは穿きたくとも足袋を持たない一、二年の児童で、うんと寒くなって足袋を穿いても足袋とは名ばかりの粗末なボロボロの足袋のものが多い。
したがってこの小さい者達が足袋を大切にすることは見ていてもいぢらしい。
登下校の際はゴム靴(穴があいている居るものが多い)にワラを敷いて素足でそれを穿き足袋は脱いで懷なり鞄なり、風呂敷なりにしまっていく。
しかし、救済工事が始まってからは、その恩恵が生徒の衣食に如實に現れて来ています。
少しづつですがよくなっているのです。・・・」
このように、東北各地で救済土木事業が展開され、徐々に生活が良くなっていったようだ。

話しは変わり、公共工事が下半期(10月から3月)に集中しているのは、予算の都合もあるけど、実は農村の収穫時期が終わったころを見計らっての工事のようだ。つまり、収穫が終わった農家に配慮して10月ごろから工事が多くなっていく。これは、昭和初期の農村救済土木工事からの流れかと思い、地元大手の土建会社の専務に聞くと「そうだ」と、話してくれた。いくらでも、農家の負担を軽くする為の公共工事でもあるようだ。つまり、東北では農家と土木工事は密接な関係から出きているこということになる。

タブーの話しですが、農家が多い街は土建会社が多いし、農家=土建=選挙ともなるのです。時代の流れは、新現代の人達にはこのことが通用しない世の中になった?と。
特に、本州の末端にある青森県はこれといった工場が無い。冬は、吹雪きで寒い、夏は、ヤマセで寒い、と同時に風が吹けば四方八方から浜の潮風が吹き、、工場生産には適さない地。土地があってもこれといった生産数が高い工場が無い青森県には核燃料施設と原子燃料施設、公共事業を受け入れなければ成り立っていけないのが現状。
農家も農機具類など一千万円以上の設備投資で冬は休んではいられない。いくらでも設備投資の資金の回収と、一般サラリーマンと同じ生活レベルで、生活していくだけの資金を稼がなければならないと頑張る、が。
私の同級生達も一昨年、農家を辞め家族で中央に出ていってしまった。
県外への人口流出!
ここ数年前まで、景気もよくなり県内からの出稼ぎも無くなってきたと思っていたが、昭和初期の時代背景を探るとこのごろ時代は逆行して来ているように感じはじめてきた。
出稼ぎは、家族の離散とも言える。
今も昔も変わっていないような気がしてきた。

さて、話しをもどし、「八甲田山系にある猿倉温泉⇔御鼻部山の県道」も救済土木事業として行われた。
では、この猿倉温泉⇔御鼻部山間の旧県道はどのようにして行われたのか?
現在、手元に資料は無いが、山岳団体たかじょの会のNさんが「南八甲田中走路」という本の中(20ページ)に、「当時県議の小笠原八十美氏が猿倉温泉を経営していた関係もあって強力に運動したという。・・・」
文面があった。
ん・・・?
小笠原八十美(氏)???
誰?
「小笠原八十美・・・」、三本木町にとっては、偉い人だったんですよ~
と、日記には書いておこう。



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