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南八甲田山の旧県道 №18(小笠原八十美)
2008年03月21日
昨年の11月下旬から12月暮れまで、小笠原八十美 氏を調べていた。
どいう人だったのか?
十和田市の郷土館に行き資料を沢山お借りした。
が、いろんなことが出てきたのであちらこちらと歩き回った・・・。
これが結構時間がかった・・・。
また、面白く病み付きになってしまった自分は・・・仕事に手がつかなくった・・・。
というわけで、長文になるが小笠原八十美 氏とは、
明治21年(1888年)上北郡法奥沢村沢田(現十和田市沢田)に生まれ、三本木町(現十和田市)議会議員、青森県議会議員、衆議院議員になられ十和田湖観光開発に力を入れた方です。

その前に、国立公園になる前の十和田湖のことをチョッとお話しします。
大正10年ごろより内務省が国立公園制度の検討を始めると、十和田湖は国立公園の候補地となった。
当時の十和田湖には旅館というものが無く、湖畔の人々は細々と天候に恵まれない土地を耕して生活をしていた。
子ノ口から休屋までの道路は道路とういう状態ではなく、獣道のような山道で郵便屋さんが大変苦労していたという。
旅人は子の口から櫓舟で休屋まで渡り、民家に宿をとり、櫓舟も天候が悪くなると、休屋、子ノ口には渡れなかった。
いまの十和田湖とは想像もつかないさびれて淋しいところだったようだ。
大正13年(1924年)、その十和田湖休屋に始めて旅館「世界公園舘」を開業した人が小笠原八十美だ。
このおかげで、旅館があちらこちらに建ち始め、観光バスや遊覧船も通るようになり、いまの十和田湖観光地の原型となっていた。
これも小笠原八十美の力と言っても過言ではない。
その八十美は、南八甲田山の旧県道にたずさわったているようだが、手元に資料がないのでなんともいえない。
ただ言えるのは、猿倉温泉も営んでいたということと、県議会史をみると救済土木工事にあてこみ十和田湖観光開発に力を発揮している。
また、小笠原八十美の話しを年配の方に聞くと、知らない人はいないというくらい有名な方なのです。

さて、話しはもどし小笠原八十美の人生は?。
生後60日で父親と死別し、生みの母はその後、他に嫁いでいき、生後まもない八十美は、小笠原本家の小笠原奥冶夫婦に育てられた。
その後の八十美の青春時代は、暴れん坊であったが、いつもリーダー的存在だったようだ。
また、この暴れぶりで育ての父:奥治が「本家(奥治)の跡取りにはできない!」と、勘忍袋の緒が切れた。
(注:小笠原奥治は、上北郡法奥沢村の出で第三代十和田村(十和田村⇒十和田町⇒十和田湖町⇒合併十和田市)の村長であった方。)
さらに、暴れん坊の八十美に対する親戚や世間の目が冷たくなり、人生そのもののはかなさを身にしみて感じた年でだったようだ。
その後、東京に上京し早稲田中学校に入学、勉学に励んでいたが、八十美を嫌う奥沢村の親族は八十美を廃摘、勘当して、親族は八十美の他に貰い受けた養子を相続人と決めた。
このため、八十美が気が狂ったという噂がたち、親族達は強制的に精神病院に監禁してしまった。
監禁された八十美に同情した看護婦が逃亡を勧め、とうとう精神病院から逃げ出した。
それからというもの、学業も手に付かず酒に溺れる毎日で堕落の世界に突き落とされていた。
明治42年、「東京にいるとこのままダメになる」と思い、早稲田中学を中退し故郷に帰ることになった。
帰郷のさい、親戚の人達は震え上がり、周りはことごとく敵になり、自らも敵を作り、地方の有力者や彼らとつながりのある官憲に反感をいだき憎んだ。
そのたびに八十美から人々が離れていった。
おびえる親類は少しばかりの財産を分け与え三本木町の大通りに小間物屋を営むようになったが、小間物屋は品物も不揃いならば主人も愛想もよくないので客が寄り付かったという。
とういとう八十美はヤクザを気取り、賭博でバクチにふけっていた。
しかし、そういう八十美も、義理、人情があつく、金銭や身の上相談を持ち込む人が絶えず、さらにその連中に気前良く持ち金をはたいたため、毎日貧乏暮らだった。
また、あるとき賭博から貸したお金が取れない友人に相談を受け、バクチ場に踏み込んで大暴れした。
また、あるときは世話になった巡査が大泥棒に切り付けられケガをしたと聞きつけ、戸板を外し病院へ運ぶという手柄もあったとか。
とにかく、酒飲みで気性が荒く、気が強く、義理人情があり、活発な青年であった分、結婚後は家財道具を売り、最後は畳まで売ってしまい非常に貧乏であった。
八十美はあまりにも、世の中に悲観し、自殺まで考えたとか。
これではいけないと思った八十美は大正6年正月、この日を境に心を入れ替えることにした。
大正8年、東奥無尽㈱三本木代理店を開業し、金融業、自動車業、新聞社を始めて手腕を発揮していった。
大正10年、乗り合いバスを買い入れて、古間木(三沢市)、三本木(十和田市)間をバスで運ぶ仕事も始めた。
これが、現在の十和田観光電鉄自動車部の始まり。
当時、労働運動が盛んで、八十美のように裸一貫から事業をおこした人には無産大衆から多くの支援があった。
大正13年、36歳になる八十美が国立公園となる十和田湖に目をつけ、観光開発に力を入れ、休屋に旅館「世界公園舘」を開業した。
また、三本木町(十和田市)に無かったホテル(十和田ホテル)を建て、旅館、金融会社、バス会社を経営するようになった。
さらに、十和田湖に遊覧船を浮かべて多くの観光客を呼び、観光都市十和田市発展の基礎を作っていった。
その人望を生かし、大正14年に三本木町議会議員に立候補し当選、三本木町議会議員になる。
2年後、破竹の勢いで八十美は青森県議補欠選挙に立候補し、当選。
昭和6年の大凶作で、人身売買や欠食児童を救う為、政友会(党)青森県幹事の八十美は議員全員を引き連れて上京。
「東北の農民を救え!!」と政府に猛運動を展開し、農林水産大臣と交渉した結果、政府の備蓄米を放出させた。
この放出により、青森県民は大喜びし、欠食児童が救われたという。

小笠原八十美はそういう波乱万丈の人生を歩んできている。
十和田市の年配の方々からいろいろ話しを聞くと、選挙の関係で小笠原八十美派と○○○派と三本木町が二分していたという。
また、八十美が衆議院時代のころ、三本木町から東京に行く修学旅行生を目黒の雅叙園に招待し、昼食をタダでご馳走したそうだ。
その時に、反対派の子供達もいたが、みんな平等にご馳走してあげたとか。
食べたい物、食べる物がない時代に、雅叙園で食べた昼食が忘れられないと私の母や友人達が言っていた。
また、こういう話もある。
「選挙が近くなると、なぜか八十美の車が田んぼや畑のあぜ道にあっちこっちに落ちている。みんなで手分けして車を引き上げると、お礼としてお金を頂いた。当時は食うもの無ければ、買うお金もない。農民達はこのお礼が一番うれしかった」という。
またまた、こいうこともあった。
衆議院時代に国から三本木町に道路舗装整備予算を頂いてきたそうだが、八十美反対派の議員達が予算を蹴ったそうだ。
せっかく国から頂いた予算を・・・もったいないと思った八十美は、じゃぁ~下北にあげると言ってあげたそうだ。
そしたら、下北の人達は大喜びをしたという。

さて、南八甲田山旧県道にはどのように関係しているのか?
猿倉温泉を運営と十和田観光電鉄自動車部のバス運営をする立場から考え、救済土木工事という国の補助をうまく利用したのであろうか?
八十美は、十和田湖(御鼻部山)から猿倉温泉間を自分が運営するバスを通そうとした説まであるが・・・?どうなんだろうか?
「青森県議会史」昭和6年7月15日の臨時県議会一般質問で、33代青森県守屋知事に「本年の如く不景気が深刻を加えているとき知事は県政を行うに当たり党略のためのみに働いて県民の疑惑を買っている。知事は十和田道の改修は失業救済を目的とすると昨年この議場で名論を吐いていたが、折角の事業も33万円の起債が県民の負担となり失業が喜ばぬことになったらどうなるか。・・・」と、強い口調で十和田道につてい質問をしている。
その結果、守屋知事が昭和6年12月3日・第33回通常県議会において第36号議案より第42号議案報告に「南八甲田中走路」を入れたということになる・・・。
なるほど~と。
小笠原八十美は、世界大恐慌の中で一般庶民にしたことは、当時としては画期的なことだったように思える・・・。
つまり、強い指導者として君臨しているようだ。
が・・・、その小笠原八十美もある事件がきっかけで逮捕されてしまう。
それは、十和田市にある晴山地区の晴山事件だ。
この事件で八十美は青森の刑務所に留置されてしまう。
昭和10年9月に・・・。
ん・・・ん~?
昭和10年9月・・・・。
と、いえば丁度、南八甲田山旧県道(御鼻部山⇔猿倉温泉)が完成予定日・・・???。
もしかしたら、この事件がきっかけで旧県道が世にでなかったのであろうか・・・?
本来、完成となれば偉い人達が集まり、テープカットや祝賀会ムード・・・・。
晴山事件とは・・・なんぞや・・・???
・・・・・
と、日記には書いておこう。


注)
小笠原八十美の育ての親:小笠原奥治は三代目十和田村長であった方。
のちに十和田湖をめぐり「開発」優先か、「環境保護」優先かで地域や国の関係者を巻き込んで「環境保護」を訴えた方でもある。
十和田湖の開発とは、十和田湖の奥入瀬渓流の水を利用し三本木町(現十和田市)の三本木原を大開墾(5,000町歩の開墾)しようとした国の計画で、それを推進したのが「水野陳好 氏」。
水野陳好は、初代十和田市(三本木村⇒三本木町⇒十和田市)市長になった方。
陳好は三本木に住む人達のため、奥治は将来の十和田湖・奥入瀬渓流の為と、お互い譲らなかった。
奥治は「十和田湖の環境は、近い将来国立公園として国家の財産となるもので、それなのに5,000町歩程度の開墾のために十和田湖を破壊するようなことになれば計りしれない損失になる」と、当時の内務省と農林省を巻き込んで対決までとなった事件。
結局、陳好さんが苦し紛れに「十和田湖のドテッパラに穴を開けて水を通しらどうか」と口走った案が採用され、十和田湖の「青撫」地区に取水口を設け、開墾を行った。
開墾面積は半分になったが、このおかげで、十和田湖・奥入瀬の景観と三本木原開墾がうまく行ったとういう。
もし、5,000町歩の開墾に奥入瀬の水が使われていたとすれば、いまの十和田湖と奥入瀬渓流はなかったであろう。
十和田湖・奥入瀬の環境保護に力を入れた、小笠原奥治という本家に育てられた小笠原八十美であった。


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