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南八甲田山の旧県道 №19 (晴山拷問事件)
2008年05月02日
桜も散り、新緑の季節がやってきた・・・。
このごろ、自民党と民主党の攻防が展開している・・・。
今も昔も変わりないような気がする・・・。
結果は、国民が振り回されている状態だ・・・。

で、前回に述べた「晴山事件」とは?
「晴山拷問事件」のほうが、どうやら正しいようだ。
その前に、昭和初期の日本の政党はどうだったのか?
昭和3年2月の日本の政党には、政友会、民政党、無産初党(社民党、日労、労農、地方無産)、実業同志会、各新党があった。
主たる政党は、政友会が与党、民政党が野党であり、後の政友会は自由党となり今日の自由民主党となっていった。
当時の青森県の政党は、野党から与党へ、与党から野党へと、議員の移り変わりが多く、ごたごたが絶えなかったようです。
これは、当時の原敬と竹内清明(旧山形村出身で原敬の力をバックにして県政に奔走した、私設知事とまでいわれた人物)の関係や地方鉄道建設に関わることがあったようです。
結局、青森県には政友会系と民政党系の二つの流れがあったのでした。

さて、小笠原十美が検挙、逮捕のきっかけとなった十和田市にある晴山地区の「晴山拷問事件」。
この事件によって、南八甲田山旧県道が日の目を見ることができなかったようだ。

「晴山拷問事件」とは
昭和10年9月25日、青森県議会選挙が実施され、小笠原十美も選出し、当選した。
が、・・・・。
この選挙は、昭和10年6月に「選挙粛正委員会令」が施行された年の選挙であった。
「選挙粛正委員会令」とは、
選挙の不正行為防止や「公正な選挙観念」の普及を目的とした内務省主導の官民合同運動で、岡田啓介挙国一致内閣のもと、昭和10年5月に「選挙粛正委員会令」が公布されて各都道府県に同委員会が設置されたもの。
青森県では、「青森県選挙粛正委員会」が発足され、委員会・会長には第38代青森県知事:小林光政が就任した。
「晴山拷問事件」は、第38代小林光正知事と小笠原八十美県議との対決となっていくのであった・・・。

第38代小林光政青森県知事は、明治25年1月13日、栃木県下都賀群生まれ。
大正6年3月、東京帝国大学法科を卒業をし、官界入りのスタートは警視庁で、大正7年には警視、大正8年警察講習所教授を兼任した。
大正14年、台湾総督府事務次官として警務局保安課課長。
昭和3年帰国、警察講習所教授。昭和4年、警視庁官房主事。昭和6年から内務省に移り、警保局勤務、同年、福岡県内務部長、昭和7年埼玉県内務部長。
昭和9年8月11日、青森県知事に就任した。
任期は、昭和9年8月11日から昭和11年10月16日まで。
(当時の県知事は、県民による民選で選ばれた知事ではなく、官界からの就任がほとんであった。
いまでいう、青森県警察本部長のような短期の就任。この、官界からの知事就任は戦後まで続き、中には一ヶ月間だけ青森県知事就任というのもあったという。)
就任した次の年、小林光政知事は、「選挙粛正委員会令」に力をそそいだ。
「選挙粛正委員会令」は、今で言う公明選挙が官憲の手によって厳しく取り締まられ、選挙が始まれば「二人並んで歩くな」「夜遅く外出するな」とやかましかったようだ。

昭和10年9月10日、「選挙粛正委員会令」のさなか、青森県議会選挙戦が始まると小林光正知事は、異例ともいえる「県会議員選挙に際しては県民各位に愬う」と題するメッセージを発表し、重ねて県民に選挙の粛正、浄化を呼びかけた。
県民監視のなかで選挙の火蓋はきられたのであった。
上北郡の議員選挙は、4議席に政友会公認4名、民生党公認3名、非公認1名が立候補し、県下でも有数の激戦区であった。
昭和10年9月25日、上北郡の選挙投票結果は、政友会公認の小笠原八十美、民生党公認の川崎新平と浜中末吉が当選した。
ところが、投票当日の朝、上北郡大深内村洞内駐在所の巡査が、消防組の小頭が同村晴山部落の者に現金を手渡しているのを目撃し、両名を七戸警察署に連行した。
実は、この両名は、投票所にて個人的な金の貸し借りを行っていたのであった。
それを見た巡査が買収の現行犯として検挙してしまったのである。
両名は署内で、竹刀で叩く、蹴る、畳を背負わせて立たせる、腕立て伏せ等非道極まる拷問にあい、「金をくれた貰った、と言えば帰すから」と言われ、遂に嘘の自供をしてしまい、これにより芋蔓式に晴山部落の全有権者に近い31人が買収容疑で検挙されてしまったのである。
この、拷問によって男泣きに泣いた人もあり、官憲に死をもって抵抗しようと自殺を計った人もいたという。
もちろん当選した三氏も検挙されたのである。
が、取調べが厳しく、暴行などによる拷問がおこなわれたという評判が立ち、小笠原八十美の側近でもある十和田新聞の記者が、晴山の人達から拷問内容を聞き取り、調書を作り、これを基に政友会法曹団が県検事局に告発した。
さらに、仙台の訴訟院にも告発したのであった。
昭和11年5月、全員が無罪となり、拷問をした三人の警察官は懲役六月の求刑がなされ、免職となった。
この事件がきっかで、小笠原八十美の家宅捜査で押収した証拠品から、県視学孟子敬一の涜職事件が露見し、その捜査でさらに前視学で現社会教育主事も検挙され、「教育疑獄事件」に発展していった。
「選挙粛正委員会令」運動で始まった昭和10年9月の嫌疑会員選挙は、その期待を裏切ったが、予想外の警察、教育界の綱紀粛正に進展したという。
小笠原八十美は、刑務所の獄中から無罪の怒りを県知事に対して、「晴山事件などで、世間を騒がせた責任をとって県議を辞職する」と、痛烈な皮肉をぶつけて辞表を叩きつけたという。
まもなく、小林光正知事はこれらの事件等で更迭になったそうです。
県議を辞職した小笠原八十美は、獄中から衆議院に立候補というかたちでぶつけ、これを聞いた支持者たちが熱狂し、昭和11年2月衆議院に当選をしたのでした。
これが、昭和10年10月に起こった「晴山拷問事件」です。

本来であれば、昭和10年10月は、南八甲田山・猿倉温泉⇔御鼻部山間の完成、開通予定のはず。
開通式となれば、県知事、県議会議員、施工主など多数の来賓者を招き、テープカットなどのセレモニーとなる。
しかし、県会議員選挙の「選挙粛正委員会令」が発端で、「晴山拷問事件」、「三議員の検挙、逮捕」、「拷問をおこなった警察官の免職」、「教育疑獄事件」と、青森県内は大混乱のようであった。
このことから、南八甲田山・猿倉温泉⇔御鼻部山間の県道が宙に浮いてしまったのではないのかと思う?
ましてや、トラのごとく知事や議会に牙を向いていた小笠原八十美の逮捕は南八甲田の県道に対して、とてもおおきかったのでは・・・?

それにしても、「晴山拷問事件」というのは、たった二人の個人的な金の貸し借りによって、いろんな事件を誘発し、ついには自殺者や警官や議員の逮捕、知事の更迭と南八甲田山の県道が消えていった事件だった・・・。
しかも、誤認逮捕で、だ・・・。
歴史を探ると、そういうことが多いような気がする。
第一次大戦にしろ、満州事変にしろ、世界がひっくり返るようなことがしばしばある。
この事件も、こんな感じだったのだろう、と思った。
この後、小笠原八十美は衆議院に当選し、代議士となるのだから。
歴史を探るうえで、「もしも」、「仮に」はあってならないとしているいが、「もし仮に」「晴山拷問事件」が無かったらどうだったのか・・・?
自殺者も逮捕者もなく、南八甲田の県道はさらに補修工事が進み、今現在、幅広い道路として活用されていたのであろう・・・?
「選挙粛正委員会令」と「晴山拷問事件」・・・。
そして、小笠原八十美と小林光正知事・・・。
青森県の歴史って、おもしろいなぁ~。
と、日記には書いておこう。

写真:南八甲田県道に携わった歴代、青森県知事
左上:守屋磨瑳夫 知事・昭和5年8月26日~昭和6年12月18日
右上:宮本貞三郎 知事・昭和6年12月18日~昭和7年6月28日
左下:多久安信 知事・昭和7年 6月28日~昭和9年8月11日
右下:小林光正 知事・昭和9年8月11日~昭和11年10月16日



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